多様化する弁護士像


(本稿は、平成30年6月26日、同志社大学法曹会総会での講演録・要約版です。実際は、レジュメ等の引用がありますが、本稿では省略しています)

 今日お話しする内容は、弁護士像についてですね
 日常の中では、弁護士像という表現自体をあまりしないですねが、非常に大事な論点の一つです。現在多種多様な生業(ナリワイ)の弁護士がいるということは、皆さんご存じですね。
 法廷中心の弁護士さんもいれば、雇用関係のもとで就労している組織内弁護士さんもおられます。

 多種多様な弁護士の存在を念頭におくと、私たちを統合する一つの弁護士像が必要になってきます。
 どうしてかというと、統合された弁護士像は、様々な施策の目標でもあるからです。例えば 法曹養成、私たちが目指す弁護士像は、こういう内容ですよと考えますと、それを目標に法曹養成の在り方も自ずと決まってきます。
 企業内弁護士の場合、法廷技術教育は、事務所内弁護士ほど必要がありませんが、今後企業内弁護士の比率が高まると法曹養成の在り方も変わってくると思われます。
 ところで弁護士像の変容を話すのであれば、これまでの弁護士像はどのようなものであったのかをお話しなければなりません。司法制度改革の中で出された司法審意見書H13,6/12ですが、法曹のことをプロフェションと呼んでいます。そこでは、弁護士については、公益性と高い倫理観が必要であるとしています。     そこで、21世紀初頭の日弁連の施策などでは、「弁護士像について、弁護士はプロフェションであり、プロフェションとは、高度の専門知識、高い倫理感 公益活動を担うもの」と位置づけられていました(いまでもそうですが)。

 そこで、プロフェッションというものが、どのように理解されているかですが、その本質は、「依頼者に対して支配的地位に立ち、外部からの干渉や監督を排斥する権力にある」と考えられています。
 つまりプロフェッションである弁護士と依頼人との関係は、支配服従の関係にあるのが、本質と考えられていたのであります。私は、弁護士歴40年になりますが、以前の弁護士は多くがそのように考えており、以前修習時期に見ていた先輩弁護士は、うち合わせ時に、依頼人がなにかと意見すると「あなたは私の言うことを聞いていればいいんだ」と言っていたのを印象深く記憶しています。
 若い先生方は、冗談でしょうと思われるかも知れませんが、現在の職務基本規定の前には弁護士倫理規定というものがありましたが、旧倫理規定では、「弁護士は、その崇高な使命と公共的な職務に鑑み、自己の業務を宣伝または広告してはならない」と規定していました。
つまりプロフェッションである以上広告なんぞはしてはならない 品位を害するとしていたのです。

 それがどのように変わって来たのか。アメリカ連邦裁の判決として有名な「ベイツ判決」30年位前の連邦裁判決なのですが、それまでアメリカでも 日本の以前と同様 弁護士会は広告は品位を害するとして規制していたんです。それを違憲とした画期的な判決と言われています。      判決は、広告を規制していた理由について、① 弁護士が私益を求める存在であることを隠すのが目的である。霞を食べている存在ではないんだということを認めない。② 広告規制の背景にあるパターナリズムの考え方を否定し、父権主義は、強い立場にある者が弱い立場の者の意志に反して、弱い立場の者の利益になるという理由から、その行動に介入したり、干渉したりすることですが、広告に触れないということは、無知のままで良いということになり、それはおかしい。 ③ 依頼人も消費者として、きちんとした情報に基づいて選択 意思決定をしたいと考えている等と批判しました。
 これらの従来のプロフェション論の変容を迫ってきた要因が、上記のとおり市場ニーズであり、インターネット社会の発達であったのです。
 10年ちょっと前にイギリスで「弁護士の終焉」というおどろおどろしい名前の本がベストセラーになった際、ソリシター協会の会長がこの本の著者とあったときの記事です
 細かい記事で恐縮ですが、本の著者が、
 「近い将来、弁護士の高価なサービスは市場に受け入れられなくなり、情報技術の進化によって効率的な安価なサービスにとって変わられる」と言ったことに、会長は反論しましが、法の支配を守るために「適当な報酬をうける」独立した法律専門職を確保する方法が大きく変化するであろうことを予期しなければならない述べています。
 また情報への無制限なアクセスによって、依頼人は自分が買うものについて情報を持ち、鑑識眼を身につけている。
 ソリシタにとって、依頼人に対し効率性とともにサービスの価値を強調することが重要になってくると述べています。
 このようにプロフェッションの変容を迫る要因が認識されてきました。

 そして日本の弁護士制度でも改革が図られてきました。平成12年には原則禁止していた業務広告を原則自由化しましたが、15年には報酬基準も廃止することになりました。このような変化の中で、日本の弁護士、プロフェッション論を中核にした弁護士像はどのように変わっていくのでしょうか。
 皆さんの中には、俺のクライアントは品のよい依頼人ばかりで、私の言うことをよく聞いてくれるので変わる必要がないんだと言っている人もいるでしょうね

 しかし弁護士と依頼人の関係も確実に変化の中にあります。
 今日は資料として出していませんが、弁護士の懲戒事例の統計を見てみますと、この10年間で説明義務違反の事例が飛躍的の増加しています。
 非違行為としての事件放置も増えています。
 余談ですが、会長は独立委員会の結論に従い、懲戒処分を会員に告知するのですが
 この事件放置の中身も従来の考え方すると、非常に変わって来ています。
 事件受任の可否についての回答義務についても、以前の基準より、厳格になっており、受任後1ヶ月半回答を怠ったケースで「非行」と認定されています。このような顧客の意識の変化に影響を及ぼしているのが、消費者主権論と当事者主権論です。
 消費者主義を象徴的に言うと

       クライアントからコンシューマへ
       権威への服従から指示への不服従
       「説得」(能力論証責務)の含意
 
 当事者主権論も同様に、

 当事者は単なる利用者 消費者ではない。ただ専門家は不要ではない。しかし当事者主権にふさわしい専門性を提供しなさい。後で決めるのは私だ。耳を傾けられる専門家でなければならない。

 さてこのような市場の変化の中で 弁護士像をどのように考えるか

 そもそもプロフェッション論は市場ニーズに適合しないと考える立場(学者の棚瀬氏)、他方でプロフェッション論を捨て去ると日本の弁護士の商業主義化が進み、従前の社会的地位も捨て去ることにつながるとの維持論(2弁、吉川精一弁護士)があります。

 私は、これからの弁護士像について、従前のプロフェッション論を固執するだけでは、弁護士は社会のニーズに応えたことにならないと考えています。
 
 これからの弁護士は、これまで正面から受け入れていない市場があることを認め、その市場ニーズに応えるだけでなく 市場を確保しコントロールしていく、そういう存在として弁護士像を考えていかねばならないと考えています。
 標語的にいうと「市場の中で生きていくプロフェッション」を目指すべきであると考えているところです。
   ご静聴ありがとうございました。